光秀が一時身を寄せていたと伝わる西福寺=福井県小浜市青井

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公、明智光秀が小浜の刀鍛冶の次男だと記した江戸時代の史料が存在する。母親は若狭にゆかりがあるという系図、伝承も残っている。福井県おおい町出身の直木賞作家、故水上勉さんの著作では、若狭の刀鍛冶が光秀の伯父として度々登場する。光秀と若狭は少なからず関わりはあるが、いずれの説も通説と異なり、裏付けもない。なぜ異説が誕生したのか。謎は深まるばかり―。

 ■家業を嫌い仕官

 刀鍛冶の次男と紹介している資料は「若州観跡録(じゃくしゅうかんせきろく)」。筆者や出版日時は詳しく分かっていないが、巻末に寛政乙卯(1795年)に購入したとある。資料によると、光秀は刀鍛冶冬廣(ふゆひろ)の次男。刀鍛冶になるのを嫌い、近江で佐々木家に仕官し、明智十兵衛と名乗ったという。そして織田家に使者として訪れた際に信長の目に留まり、家臣となったと書かれている。

 冬廣は室町時代から江戸時代にかけて、若狭を拠点に活躍した実在の刀工集団で、代表者も冬廣を名乗ったとされる。観跡録ではさらに、丹波亀山の領主になった光秀が冬廣を招いて刀を造らせたため、丹波には冬廣ゆかりの道具が多いと説明。当時の冬廣は光秀の父でなく、おいだったとある。

 ほかに小浜出身を裏付ける資料もなく、福井県立若狭歴史博物館(小浜市)の徳満悠学芸員は「光秀は美濃出身というのが通説」と話す。そのうえで観跡録が、土地の地理や歴史をまとめた地誌に分類されることから「理由は不明だが、冬廣の次男という伝承が当時広まっていた可能性はある」とみる。

 ■称念寺伝承と共通点

 同じく江戸時代の史料とみられる「明智系図」では「濃州(美濃)多羅城誕生」とするが、母親は「武田義統の妹」と説明している。義統は若狭を治めた武田氏の8代目当主。この系図を信じるなら、光秀は若狭武田氏の血を引いていることになる。しかし義統は光秀と同年代の人物。妹が光秀の母親とは考えにくく、説は疑問視されている。

 長年、若狭を研究してきた福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館(福井市)の有馬香織学芸員によると、光秀が小浜市青井の西福寺に身を寄せていたという言い伝えがある。光秀ゆかりの坂井市の称念寺には、光秀の母が同寺の末寺・西福庵に縁があったと伝わる。西福庵の場所は特定されていない。小浜市の西福寺と名前が似ており、両寺とも時宗という共通点がある。しかしこちらも「小浜にいたことを裏付ける史料はない」という。

 ■若狭武田氏との関わり

 光秀と若狭武田氏との主な関わりは三つ。▽武田氏に忠誠を誓うよう地元武士に求める光秀、秀吉らの署名入り文書が小浜市青井の神明神社に伝わる▽明智らが攻めたおおい町の武藤氏は武田氏の家臣▽武田氏は本能寺の変で光秀に味方したため滅んだ。

 こうした史実や伝承を下地にしたのか、若狭武田氏とその妻を取り扱った水上さんの著作「玉椿物語」では、光秀は「刀鍛冶藤原冬広を伯父と仰いだ」と書かれている。武藤氏が登場する「鴉(からす)」では、光秀ら織田軍の使者として藤原冬広が登場。明智日向守(光秀)の伯父と名乗る。

 光秀と若狭を結びつける異説・伝承がこれだけ存在している理由は分かっていない。徳満さんは「歴史上の謎は、判明した方が我々学芸員は助かる。しかし歴史ファンにとっては謎のままにしておいた方が、面白さが深まるかも」。謎多き光秀ゆかりの地として、若狭をアピールする材料になるかもしれない。

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